日本書紀は、日本最古の「ループもの」だった…?

こんにちは。「まっしろライター」のましろ(@mashirog)です。

今さらながら、日本書紀(の現代語訳)を読みました。

古事記の現代語訳やマンガは何冊か読んだものの、「古事記に比べて日本書紀はつまらない」という印象が強く、日本書紀には手を出せずにいました。

ただ、思いきって読んでみると、これが意外に面白い

むしろ、現代語訳を読むぶんには、古事記よりも日本書紀の方が面白いんじゃないか? とすら思ったのです。

なぜそう思ったのか? 自分なりに考えてみました。

※この記事はあくまで、福永武彦さんが現代語訳を行った『現代語訳 日本書紀』という書籍にもとづいたレビューです。

日本書紀そのものに関する文学的、歴史的な考察はしていませんので、ご了承ください。

意外と面白い日本書紀

古事記には、たくさんの関連書籍が出版されています。

現代語訳を担当した方だけでも、今回ご紹介している福永武彦さんや、その息子である池澤夏樹さん、明治天皇の玄孫である竹田恒泰さんなど、そうそうたる顔ぶれ。

もう少しゆるいものだと『ラノベ古事記』や、pixivでも読める『超楽! 古事記』と、バリエーションに富んでいます。

それに比べて、日本書紀の関連書籍はそれほど多くありません。内容も、まじめな現代語訳や、学習漫画の要素が強いマンガなどがほとんど。

なぜ少ないかというと、先述の通り日本書紀は「つまらない」からです。言い換えれば、「面白さを狙った本ではない」から。

古事記は、それまでバラバラになっていた文献や言い伝えの内容を取りまとめて、体系づけられた歴史書を作るために編纂されました。

日本人が読むための本なので、文体は日本語の読みを活かしたものになっています。

一方、日本書紀は、外国(中国・朝鮮)に日本の歴史を伝える目的で編纂されたと言われています。文章も漢文体です。

巻数も、古事記が3巻なのに対して日本書紀は30巻と、かなりボリュームに差があります。

ただでさえ硬い文体なのに、これだけ量が多くては、娯楽目的以外で日本書紀を読む人は少なかったでしょう。

また、海外向けであるからなのか、内容も少しマイルドになっているようです。

古事記には、陰部を火傷して死んだり、陰部に棒が刺さって死んだりする女性がやたらと登場するのですが、日本書紀だと該当の場面は「体を焼かれて」「体を打って」という表現に変わっています。

まあ、古事記の内容をそのまま外国人に見せたら、「日本はHENTAIの国」と言われてしまいますからね…。

とはいえ、これらの問題は、『現代語訳 日本書紀』を読むぶんにはそれほど気になりませんでした。

まず「文体が硬い」件ですが、現代語訳はもちろん普通の日本語で書かれています。

福永武彦さんが現代語訳した古事記は読了済みなので、同じようなイメージで読めました。

「巻数が多い」というのも、『現代語訳 日本書紀』は「文学的と思われる箇所を選んで」抜き出し、文庫本1冊におさまる量にまとめられています。

なので、つまらない部分(後半の、天皇の系図だけが延々と書かれている部分など)もすべて訳してしまっている古事記よりも、日本書紀の現代語訳の方が面白かったりするのです。

「ループもの」として読む日本書紀

日本書紀の特徴として、「一書」(異説)が数多く記されていることが挙げられます。

古事記も日本書紀も、たくさんの歴史書や伝聞の内容をもとに作られたという点は変わりません。

ただ、古事記はそれらの内容をひとつにまとめて1本道のストーリーにしているのに対し、日本書紀はあえてまとめず(まとめられなかった?)、「本筋はこうだけど、こういう説もあるよ」と紹介しているのです。

中には、天皇家や藤原家にとって都合の悪い話もあったかもしれませんが、そうしたものもすべて記載して後世に残したという点に、日本書紀の歴史的価値があります。

たとえば、有名な「天岩屋戸」の冒頭シーンも、本文と一書では以下のように少し内容が異なります。

【本文】
スサノオが、アマテラスのいる機織り小屋に馬を投げ込む。驚いて転んだアマテラスはケガをし、怒って岩戸に閉じこもる。

【一書】
スサノオが、アマテラスの椅子に脱糞する。何も知らずにそこに座ったアマテラスは病気になり、怒って岩戸に閉じこもる(そりゃ怒るわ)。

同じストーリーを、少しだけ内容を変えて繰り返すって、何かに似ていると思いませんか?

そう。最近流行りの(?)「ループもの」です。そう考えると、古事記と日本書紀の関係も、ループものの中に含まれそうです。

日本最古の和歌(スサノオの「八雲立つ」)、日本最古の踊り(アメノウズメの神楽)など、日本神話には日本の芸能のルーツをたどることができます。

実は、ループものの起源も日本書紀だったのかも…と考えると、急に親近感がわいてきますよね。

ククリヒメは、メアリー・スー?

『現代語訳 日本書紀』を読んでいて、特に印象に残った話があります。「黄泉の国」です。

『ペルソナ4』などの作品でも紹介されている有名な神話なので、知っている方も多いのではないでしょうか。

死んでしまったイザナミを追いかけて黄泉の国に行ったイザナギが、見るなと言われたのに醜い姿に変わったイザナミを見て、驚いて逃げ帰ってしまうという話です。

(ある意味、日本最古の「見るなよ!絶対に見るなよ!」なのかもしれません)

古事記だと、この話はいわゆる「バッドエンド」です。

逃げたイザナギに憤慨したイザナミは「あなたの国の人間を1日1000人殺してやる」と言い、イザナギも返す言葉で「だったら俺は1日1500人産ませるもんね」と言い、ケンカ別れをしてしまいます。

日本書紀の本文や大概の一書でも、この流れを踏襲しています。

ひとつだけ毛色の違うのが、「第五段第十節」の一書です。

ここでは、イザナギとイザナミはケンカをしていません。

理性的に話し合いを行い、お互いが納得した上で、イザナミは黄泉の国に留まることを選びます。

「黄泉の国」の話は、古事記で読んだときからモヤモヤしていました。イザナミ可哀想すぎない? と。

がんばって神様を産んでいたのに突然死んでしまって、イザナギが迎えに来てくれたと思ったら姿を見たとたんに逃げられて…。1日1000人殺したくなるのも無理はありません。

なので、この一書を読めたことで、胸のつかえが取れた気分になりました。

異説を語り継いできた昔の人も、私と同じ気持ちだったのかもしれません。

ところで、「第五段第十節」の一書には、ククリヒメという神様が登場します。

古事記、日本書紀のすべてを見てもここにしか出てこない、レアな神様です。

この神様は、イザナギとイザナミが話し合いをしているところに現れ、何かの言葉を洩らしたそうです。それを聞いたイザナギはククリヒメを誉め、黄泉の国を去って地上に戻ります。

ポッと出てきて物語に介入して、メインキャラに褒められるというのは、二次創作における「メアリー・スー」を彷彿とさせます。

また、このエピソードをもって、ククリヒメは「縁結びの神様」として信仰されるようになりました。

石川県の白山比咩神社を総本社とする、全国に2700社あるという「白山神社」の主祭神です。

日本書紀のたった1行の記述――しかも、ククリヒメが何を言ったのかは分かっていない――だけで「この神様は縁結びの神様だ!」と解釈をした昔の人たちの発想力には、頭が下がります。

どことなく、原作には存在しないカップリングを妄想するのと同じ匂いを感じます。

前述の通り、原文でも充分にドラマチックな古事記に比べて、日本書紀の文章は淡々としています。

そのあたりが、よけいに読む人の想像をかきたてたのかもしれません。